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中国まるごと百科事典

中国茶の歴史

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中国はお茶の故郷であり、お茶が人々の口に入ったのは、世界最古とされるお茶の神様『陸羽』の著書『茶経』では、紀元前2700年頃までに遡ります。また、神農が茶葉を使って病気を治した、という記述も残っています。

喫茶の起源

お茶は最初は飲用として使われたのではなく、食用、薬用、祭品として用いられていました。
西漢時代(紀元前59年)に蜀(四川)の王褒(おうほう)によって記された『僮約(どうやく)』にある、『荼』が茶の前身と言われており、その中には当時既にお茶が飲まれていて、その売買があったことが記載されています。

喫茶の発展

紀元前11世紀〜紀元前7世紀ころまで栄えた周の武王の時代には、すでにお茶が飲まれていたことが『陸羽』の『茶経』に書かれています。
後漢(1〜3世紀初頭)の時代に入って、四川省近辺の茶産地から始まったとされる飲用の習慣が揚子江流域にまで拡大し、三国時代(3世紀初〜中)から晋(3世紀後半〜5世紀初頭)の時代には、官僚や王侯貴族など上流階級に喫茶の習慣が流行しました。
3世紀に魏(ぎ)の張揖(ちょうしゅう)の著した『広雅(こうが)』には、餅茶の製造に関しての記録や飲み方として葱(ねぎ)、生姜(しょうが)やみかんの皮を混ぜて飲むという記述が出てきます。

南北朝時代(5?6世紀末)に入ると喫茶の習慣は庶民層にも浸透し、多くの素材と一緒に煮出したようなお茶が飲まれていたという記録があり、大都市部(長安や洛陽のような)や地方でも富裕層にお茶が普及していた事をうかがい知ることができます。

喫茶の普及

広く一般的に普及し始めたのは、唐代からです。
唐代のお茶は『団茶(餅茶とも)』中心でした。運搬に適しているため喫茶の普及を促しました。
それまでは『煮茶法』と『泡茶法』が一般的でしたが、新たに『煎茶法』が陸羽によって考案されました。
『煮茶法』は沸騰した湯に茶の粉末を入れたり、冷水に入れて一緒に煮る方法、『泡茶法』は餅茶を朱色になるまで炙り、それから砕き、釜に入れ水を出し、そして姜、葱や柑などを加えるものです。
『煎茶法』は水を沸かしてから粉末を投入し、かき混ぜながら3度目の沸騰時に止める、というものです。
その後宰相にもなった『常袞(じょうこん)』が福建に左遷されてきて作ったお茶が『研膏茶(けんこうちゃ)』で、武夷山は研膏茶によって有名になりました。その後さらに発展して『蝋面(ろうめん)茶』が作られて皇帝への献上茶となり、武夷山(ぶいさん)は岩茶で有名になりました。
このお茶を研(と)ぐという工程は、蒸してから水を加えて擂粉木(すりこぎ)と擂鉢(すりばち)とで細かく擂りつぶして作ることから名付けられました。『蝋面茶』はさらに細かく擂ったために茶葉の蝋成分が表面に出てきたためとか油膏を加えたために光沢があってそう言われました。
やがてこのような製法は宋代の抹茶に引き継がれていきました。唐代は茶馬貿易が開始され、茶葉に税金が課せられたり、専売制度ができてお茶を中心に経済活動がなされました。

唐が滅んで宋代に入ってもお茶の専売制度(榷茶法)が継続され、自由なお茶の輸出が厳しく制限されました。馬の購入の支払いでは、金属の貨幣から布帛(ふはく)や茶に変えていき、 ますます盛んになっていきました。唐末期に作られるようになった『龍鳳(りゅうほう)茶』が宋代では『龍鳳団』と呼ばれ、献上茶となってからは『北苑(ほくえん)茶』と呼ばれました。宋代では隋唐の時代にあった煮茶や煎茶を伝承した上で、新たに『点茶』も生まれ、それまで団茶が主流だったお茶が庶民でも楽しめる散茶(芽茶)や草茶が多くなりました。
『龍鳳団』は固形の表面に龍や鳳凰の模様が入れられた皇帝専用茶でした。
唐代は葉を砕くのに臼と杵で茶は薬研(やげん)を使って挽いていましたが、宋代では葉は擂鉢(すりばち)でおろして茶は石臼が使用されたため、より粒子が細かい粉末になりました。茶末に湯を直接注いで泡が出るように茶筅(ちゃせん)で力強く攪拌して、どろっとした濃いお茶をたてて黒い茶碗で飲むという習慣で点茶といわれました。茶園は福建・建安の北苑茶園が、貢茶と呼ばれる宮廷御用茶の専用茶園として有名になりました。
また北苑近辺の建窯(けんよう)で焼かれた黒釉(こくゆう)の天目茶碗(てんもくちゃわん)が最も有名になりました。

喫茶の成熟

中国茶は明代に入ってから、その製造方法から飲用方法まで、全てが変革されました。散茶がすっかり主流の座に昇り、それにより製茶が生臭い蒸し製茶から釜炒り製茶に変わりました。またお茶の淹れ方も『沖泡』といい、茶壷(急須)を使用する泡茶(ほうちゃ)に変わりました。これにより、お茶の楽しみ方が更に簡単、簡略化されました。
16世紀になると大航海時代の幕開けで、ヨーロッパの探検家や宣教師が多くやってくるようになり、お茶の情報が多く伝えられました。
17世紀にはオランダの東インド会社がジャワのバタビア、イギリスの東インド会社がボンベイに設置されて交易を行うようになりました。日本のお茶もオランダ人が輸出しましたし、中国のお茶もオランダ人がイギリスに売るようになりました。
イギリスが厦門に商務機構を設置し茶の取り扱いを開始すると、貿易に熱心な福建を中心に様々なお茶が持ち込まれて紹介されました。
18世紀になるとイギリスの茶葉輸入は増大し嗜好がはっきりしていきました。18世紀初頭は『松羅茶(しょうらちゃ)』という緑茶が『SINGLO(シンロ)』として好まれましたが、やがて武夷山の発酵茶で『BOHEA(ボヒー)』が増大していきました。イギリスではミルクを入れて飲むスタイルが普通であったため発酵茶の色調の濃いお茶が好まれるようになったと推定されます。

清代に入ってからの中国茶は、明代の喫茶をそのまま受け継ぎ、さらに発展しました。
そして、福建省や広東省では烏龍茶の『功夫(工夫)茶』が流行り、『小壷泡烏龍』といい、お茶だけではなく、茶器に対しても大変な拘りを見せています。
清の乾隆帝が中国茶取引の決済には銀としたため、イギリスは銀不足に陥って財政危機に瀕し、インドのアヘンを使用するようになりました。清政府の禁止令にもかかわらずアヘン中毒が増加し清政府を悩ますこととなっていきました。
一方イギリスは中国以外での茶樹探索に乗り出し、イギリス人のブルース兄弟がアッサムで茶樹を発見しました。
欽差(きんさ)大臣の林則徐アヘンを没収して処分したため、清とイギリスの間でアヘン戦争が勃発しました。結果清がイギリスに屈して南京条約を調印して、香港割譲や五港開港を飲んで半植民地化されていきました。
その後中国の茶業は目覚しく発展しましたが、インドの茶産業も快進撃を続け、世界の茶市場は拡大を続けていきました。
南京条約以後は殺青をせずに揉捻を行う紅茶が主流となり、インド以降の国々でも紅茶を生産するようになっていきました。
20世紀初頭には世界の茶葉生産は大多数が紅茶で、当初飲まれていた緑茶や半発酵茶は中国と日本を除くとごく限られた少数派となっていきました。

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