秦氏はもともと現在の甘粛省あたりの一部族であったが、隣国の晋の文公の即位を援助し、さらに周王室の乱を晋とともに収めるなどの功績を上げるなどして勢力を伸ばしていった。
始皇帝の6代前の孝公の時、商鞅という有能な人物が現れ、孝公は彼を採用した。これを商鞅の変法と言う。民間の組織、軍隊の組織を明確に取り決め、信賞必罰を確立させた。それにより、富国強兵が図られ、戦国七雄のひとつとなった。
その後は連戦連勝を重ね、政局は秦対六国という形になり、六国は合従して秦に共同であたろうとしたが、説客・張儀が各国を めぐり、連衡策によって合従を破綻させた。このころ秦王政が即位、六国を併合し、B.C.221々天下を統一、中国初の統一王朝が誕生し、政は始皇帝と称した。
秦代地図
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始皇帝は文字や度量衡、貨幣の統一を実施し、協力な中央集権政策を採った。また、六国の長城を繋ぎ合わせて万里の長城を建築し、思想規制のために焚書坑儒を行った。

B.C.210年始皇帝が崩御すると、宦官の趙高によって、長子扶蘇が自殺に追い込まれ、公子・胡亥を二代皇帝として擁立、自らが権力を握り政敵を滅ぼした。
B.C.209年には東方の大沢郷で陳勝呉広の乱が起こり、二世皇帝から非難された趙高は二世皇帝を自殺させてしまう。
次いで二世皇帝の甥に当たる公子嬰を三世皇帝として即位させた。しかし公子嬰は趙高の謀略を知り、これを殺害、即位46日にして、反乱軍の一派劉邦に降伏し、受入れられた。
しかし1ヵ月後に項羽によって秦の皇族と共に処刑され、都には火が付けられ、その火は3ヶ月間燃え続けた、と言う逸話が残っている。

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