夏
B.C.21c
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B.C.16c |
中国最初の王朝で奴隷制国家。
夏族は黄河中流域を支配する部族で、尭、舜の時代はたびたび黄河の大洪水が起こったため、舜の子供の禹が“居外十三年、過家門不敢入(:13年もの間家の前を通っても入ることはなかった)”という努力の結果、黄河の治水に成功した、と伝えられている。
この禹が王に即位し、陽城(現在の河南省登封)に建国した。夏王朝の版図は河南省南・中・北部と山西省南部。
この王朝の存在を証明するものとして、河南省で発見された二里頭遺跡が夏王朝の都であったと考えられている。この二里頭遺跡はその発掘物などから、龍山文化の系統を引いているとされている。二里頭遺跡では、中国で最古の青銅器として戈も発見されている。 |
商
B.C.1751
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B.C.1023 |
商王朝は、夏王朝末期、青銅器を以って軍事を掌握していた“商湯”という人物が、周囲の小国を併合し勢力を増して、夏王朝最後の王・桀(史上有名な暴君)に反旗を翻して建国した。
伝説の王朝と言われていたが、殷墟の発掘でその存在が確認され、15万片に及ぶ甲骨文の卜占によって、史記の記述の正確性も確立された。甲骨文の記録によると、神権政治が行われており、天を帝、または上帝と呼び、神として崇めていた。殷墟からは大量の青銅器が発見されており、青銅器文化はこのころ始まったとされている。
最後に都が置かれたところが殷(現在の河南省安陽県小屯)だったため、殷とも呼ばれる。周の武王に滅ぼされ、商の人々が生き延びるために各地でリスクの多い流通業に携わったことから、商業、商売、という言葉が生まれた。 |
西周
B.C.1023
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B.C.771年 |
陜西省・甘粛省一帯を支配していた周族が、武王の時代に、政治腐敗により内外に矛盾を抱えていた商王朝を倒し、鍋京(現在の陜西省西安市南)に建国。
周王朝は血縁を中心とする王族や功臣を諸侯に封じ、 その土地を治めさせる代わりに貢納と軍事の義務を負わせるという封建制度を実施した。
B.C.771第12代幽王の外交失策により西方異民族犬戎の侵入を許すこととなった。周王朝の権威は縮小、これを周の東遷といい、これ以後を東周、これ以前を西周と呼ぶ。
東周はさらに春秋時代と戦国時代に分かれる。春秋時代には斉の桓公、晋の文公、
宋の襄公、秦の繆公、楚の荘王、 呉の闔閭・夫差、越の勾践という有力な諸侯が現れ、これを春秋五覇と言う。
B.C.403大国晋の卿であった韓・魏・趙が周から諸侯と認められて、晋は分裂、ここから戦国時代が始まる。戦乱の中“戦国七雄”と呼ばれる強国が残った。各国ではそれぞれ思想家などが重用され、その様々な思想から諸子百家と呼ばれ、その隆盛は百家争鳴と言われた。 |
秦
B.C.221
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B.C.207 |
秦氏はもともと現在の甘粛省あたりの一部族であったが、隣国の晋の文公の即位を援助し、さらに周王室の乱を晋とともに収めるなどの功績を上げるなどして勢力を伸ばしていった。
始皇帝の6代前の孝公の時、商鞅という有能な人物が現れ、孝公は彼を採用した。これを商鞅の変法と言う。民間の組織、軍隊の組織を明確に取り決め、信賞必罰を確立させた。それにより、富国強兵が図られ、戦国七雄のひとつとなった。
その後は連戦連勝を重ね、政局は秦対六国という形になり、六国は合従して秦に共同であたろうとしたが、説客・張儀が各国を
めぐり、連衡策によって合従を破綻させた。このころ秦王政が即位、六国を併合し、B.C.221天下を統一、中国初の統一王朝が誕生し、政は始皇帝と称した。
始皇帝は文字や度量衡、貨幣の統一を実施し、協力な中央集権政策を採った。また、六国の長城を繋ぎ合わせて万里の長城を建築し、思想規制のために焚書坑儒を行った。
B.C.210始皇帝が崩御すると、宦官の趙高によって、長子扶蘇が自殺に追い込まれ、公子・胡亥を二代皇帝として擁立、自らが権力を握り政敵を滅ぼした。B.C.209には東方の大沢郷で陳勝呉広の乱が起こり、二世皇帝から非難された趙高は二世皇帝を自殺させてしまう。次いで二世皇帝の甥に当たる公子嬰を三世皇帝として即位させた。しかし公子嬰は趙高の謀略を知り、これを殺害、即位46日にして、反乱軍の一派劉邦に降伏し、受入れられた。しかし1ヵ月後に項羽によって秦の皇族と共に処刑され、都には火が付けられ、その火は3ヶ月間燃え続けた、と言う逸話が残っている。 |
漢
B.C.206
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220 |
秦王朝滅亡後、項羽と劉邦による楚漢の戦いを経て、農民出身の劉邦が長安を都として漢王朝を建国、高祖に即位した。“四面楚歌”という言葉は、この楚漢の戦いで篭城中の項羽が四方から聞こえてきた祖国・楚の歌を聴き、楚軍が漢の手中に落ちたと思い込んで最後を悟ったという出来事が語源。
高祖は即位後中央集権の郡国制を実施した。従来敵対関係にあった匈奴とは、魯元公主を嫁がせることで和睦を結ぶなど、外征を控え、国庫財政の回復に努めた。
高祖の死後、未亡人の呂皇太后とその一族の乱を経て、文帝が即位した。文帝とその息子の景帝の治世は理想的と言われている。景帝の即位3年目には呉楚七国の乱が起こるが、これを鎮圧。以後経済は安定し、権力が絶対的なものとなった。
次の武帝の時代には、文帝・景帝時代に蓄積された国力を基に、匈奴に対して数度の大討伐を実施、朝鮮に出兵して4郡をおき、張騫の大遠征によって西域の情報を得ると大遠征軍を組織して西域諸国を服属させた。塩鉄専売などによって財政の確立を図り、また諸候王と諸候を数々の法律によって廃絶するなど中央集権的皇帝支配の体制を確立させた。
武帝の死後、霍光による専横、外戚と宦官によって国政が左右され、外戚の王莽が西漢王朝を簒奪するに到った。これを新王朝というが、赤眉や劉秀など各地の豪族による乱のため、15年で滅亡する。
王莽滅亡後、新王朝末期の反乱軍で、漢王室の一族・劉秀が洛陽を都として漢王朝を再興、光武帝として即位。光武帝は外戚や宦官を抑えて内治に努め国家の基礎を確立した。
しかし後漢末期には、再び外戚や宦官が専横を奮うようになり、中央の豪族の師弟が「気節の士」として名節を尊び、外戚の専横を非難するものの、宦官たちは帝権を後ろ盾として名節の士を弾圧し、党錮の獄が起こった。この頃、辺境の陜西方面では羌族が反乱を起こし、また各地では太平道という宗教集団による黄巾の乱が勃発、この反乱の鎮圧に乗じて各地の豪族が割拠し、華北の豪族・袁紹が宦官2000余人を惨殺、黄巾討伐に功のあった西涼の董卓が洛陽に入り天子を廃立、これにより漢王朝は滅亡した。 |
三国
時代
220
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265 |
黄巾の乱討伐の群雄の一人、曹操は董卓に拉致されていた献帝を擁立し勢力を拡大し、200年に北方の群雄・袁紹を官渡の戦いで破り華北を統一した。
曹操は208年、江東の支配者・孫権と荊州の支配者・劉表の客将・劉備の連合軍と赤壁において戦うが破れ、その後劉備は蜀で勢力を築き、曹操・孫権・劉備による三国鼎立となった。
220年に曹操の子曹丕が東漢献帝に禅譲を迫り、魏帝として洛陽に都を置き魏王朝を建国、蜀の劉備は翌221年に成都に都を置き蜀漢を興し、呉の孫権は229年に建業に都を置き孫呉を興した。これ以降を三国時代という。
234年に蜀の軍師・諸葛亮が亡くなると、魏の司馬懿が魏朝の実権を握り、その子司馬師、司馬昭と引き継がれ、263年、蜀を滅ぼし、司馬昭は晋王に封じられる。司馬昭の死後、その子の司馬炎が晋王を継承し、武帝として即位、魏が滅び西晋時代が始まる。280年には西晋が呉を滅ぼし天下を統一した。 |
晋
265
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420 |
西晋の武帝は267年以降、唐代の律令の基礎となる律20編、令40編の律令を作り上げ、占田課田法(土地の一定の占有を認め課税し、公有地も一定面積を割当て課税する)法を布いた。
武帝の息子・恵帝の代で、外戚の賈氏一族や封国の諸王が権力争いを繰広げた。これを八王の乱と呼ぶ。この機に乗じて匈奴の貴族・劉淵が反旗を翻し、316年、洛陽・長安を占領して西晋を倒す。
西晋時代は、西部と北部の辺境地域を匈奴、鮮卑、羯、氐、羌のいわゆる五胡が支配しており、それら部族が次第に内遷し、現在の甘粛省、陜西省、山西省、河北省、遼寧省の長城以南の広大な地域を支配するまでになった。
西晋の宋室の瑯邪王司馬睿は華北を逃れて建業にいたが、洛陽・長安両都の陥落を知ると即座に即位し、これより東晋王朝が成立し五胡十六国・南北朝時代へと突入する。
東晋時代、華北では五胡の国家群が興亡し、これを五胡十六国【成漢、夏、二趙(前・後)、三秦(前・後・西)、四燕(前・後・南・北)、五涼(前・後・南・北・西)】時代と呼ぶ。
383年、東晋は謝玄率いる8万の軍勢で、南下してきた前秦の符堅の100万の大軍を淝水の戦いで破り黄河以南の失地を回復した。その後東晋は謝玄による寛和の政によって一時は国力を富強させる。東晋末には、孫恩による民衆反乱が起こるが、北府隊長の劉裕が撃退する。劉裕はその後洛陽、長安を奪回し人心を集め、420年、皇帝の荒淫生活により政治が乱れた東晋最後の恭帝に迫って帝位を奪い劉宋を建国、武帝を称する。 |
南北朝
420
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589 |
420年に劉宋・武帝が即位して以降160年間、華南では宋、斉、梁、陳の4朝が建康を都として立ち、これを南朝と言う。
一方386年の淝水の戦いで前秦が敗れた後、その前秦に滅ぼされた代の子孫・鮮卑郡拓跋部が北魏を建国、439年に黄河流域を統一するが、535年東魏と西魏に分裂、後東魏は北斉へ、西魏は北周へと政権が移り、これら五つの王朝を北朝と呼ぶ。
南北朝とは北朝と南朝の並立時代のことを指す。 |
隋
581
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618 |
581年に北周が北斉を破って華北を統一した4年後、北周の将軍楊堅が皇位を簒奪し、南の陳王朝も攻略し隋王朝を立て、文帝として中国全土を支配した。
40年の統治の間に中央集権化された軍事組織と行政組織、財政基盤を整えた。行政改革の一環として科挙を導入し、国を一つにまとめる求心力として仏教を利用しつつ、儒教も復活させた。
二代皇帝煬帝は、人民を動員して南北を結ぶ大運河を完成させ、大規模な外征に乗り出し、トルコ族の東突厥を服属させ、鮮卑族を征服した。しかし、高句麗の鎮圧はことごとく失敗に終わった。3度目の高句麗遠征では、高句麗に勝利するものの、敗れた高句麗王は約束を破り、随に臣従の礼をとらなかった。
徴兵と賦役により国内に不穏な空気がたまり、まもなく発生した黄河の氾濫を契機として、負担に苦しむ農民反乱が各地に勃発し、そのなかで617年、北方軍閥の李淵が長安を占拠、かつて煬帝によって失脚させられた大臣の息子・宇文化及に暗殺された。
煬帝の孫の恭帝が帝位につき、李淵が摂政となったが、翌年洛陽を占拠し恭帝を退位させ、唐王朝を開いた。 |
唐
618
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907 |
隋に代わって、中国を支配した唐は基本的に隋の支配システムを受け継いだ。626年に即位した太宗は、租庸調制を整備し、律令制を完成させた。唐の都の長安は、当時世界最大級の都市であり、各国の商人などが集まった。唐時代には、ゾロアスター教・景教・マニ教をはじめとする各地の宗教が流入した。また、文化史上も、唐時代の文学は最高のものとされる。
712年に即位した玄宗は国内の安定を目指したが、すでに律令制は制度疲労を起こしていた。また、周辺諸民族の統治に失敗したため、辺境に強大な軍事力が置かれた。これを節度使という。
節度使は、後に軍権以外にも、民政権・財政権をももつようになり、力を強めていく。763年には、節度使の安禄山たちが安史の乱と呼ばれる反乱を起こした。この反乱は何とか鎮圧されたが、各地で土地の私有(荘園)が進み、土地の国有を前提とする均田制が行えなくなっていった。結局、政府は土地の私有を認めざるを得なくなった。結果として、律令制度は崩壊した。
875年から884年には黄巣の乱と呼ばれる農民反乱がおき、唐王朝の権威は失墜した。このような中、各地の節度使はますます権力を強めた。907年には、節度使の1人である朱全忠が唐を滅ぼした。 |
五大
十国
907
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960 |
唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を統治した五つの王朝(五代)と、それを取り巻くように成立した諸地方政権(十国)とが興亡した時代。
■ 五代
| 後梁 |
907年-923年 |
開封 |
唐末の混乱期に、唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の昭宣帝に禅譲させて建国した。晋王・李克用(突厥出身)など唐末の混乱に乗じて地方の軍閥(節度使)が後梁を認めず各地で自立したため、五大十国の分裂時代に突入した。 |
| 後唐 |
923年-936年 |
洛陽 |
李克用の子供の李存勗(荘宗)が後梁を滅ぼして建てた。この時点で中国北部の大部分を制圧した。さらに四川地方の前蜀を滅ぼし、南方諸国(十国)を掌握するなど中国全土の再統一を進めたが、926年に地方で反乱が相次いだ。李克用の子供の李嗣源(明宗)は、反乱を収集させて政治を建て直した。933年に明宗が病に倒れて李従厚(慇帝)が跡を継ぐと、明宗の養子である李従珂が反乱を起こして帝位を奪う。 |
| 後晋 |
936年-946年 |
開封 |
李従珂と共に明宗の腹心で、明宗の娘婿でもある実力者の石敬瑭が、北方の耶律阿保機率いる契丹(遼)に援軍を要請、後唐に対する反乱を起こし、936年晋陽に建国した。石敬瑭は援軍の見返りに燕一帯の16州を割譲、この土地を燕雲16州と呼ぶ。2代目皇帝の擁立を、遼に無断で行ったため遼の怒りを買い、946年耶律徳光に滅ぼされた。 |
| 後漢 |
946年-950年 |
開封 |
後晋の節度使で晋陽に駐屯していた劉知遠が、遼軍の引き上げた後の開封に入った。遼は開封の統治に失敗しており契丹人の兵たちが北帰を望んでいたこととから遼軍は劉知遠と戦わず、劉知遠が皇帝・高祖として即位した。劉姓であることから、国号を漢とした。劉知遠の死後、次男で年若い劉承祐(隠帝)が後を継ぐ。自分の権力を高めようとした劉承祐は、劉知遠の代からの実力者で地方に駐屯する将軍・郭威を排除しようとしたが、郭威の軍が開封に迫る最中の950年に郭允明によって殺された。 |
| 後周 |
951年-960年 |
開封 |
郭威が自ら帝位(太祖)に就き後周を開いた。郭威の死後養子の柴栄が即位、五代随一の名君といわれる世宗となる。内政に積極的に取り組み、国力を充実させた世宗は、中国の再統一を目指し、北漢、後蜀、南唐、遼を攻めて領土を広げたが、遠征中の959年若くして死んだ。世宗の死後、7歳の柴宗訓(恭帝)が跡を継いだが、幼い帝に不安を抱いた軍人たちが、遠征軍の司令官であった殿前都点検(近衛軍長官)の趙匡胤を擁立、恭帝から禅譲を受け宋を立てた。趙匡胤の遺訓により、柴宗訓の子孫は南宋が終わるまで手厚く保護された。 |
■ 十国
| 呉(902~937)・呉越(907~978)・荊南(907~963)・楚(927~951)・南唐(937~975)が、四川の前蜀(907~925)・後蜀(934~965)、福建の闽(909~945)、華南の南漢(917~971)、華北の北漢(951~979) |
| 華北の五代各国の創業者は多くが軍人で、この時代中国では珍しく武人政治の時代となった。各国が中原地方で興亡を繰り返していたた間、唐末の財政を支えていた江南は、政治も概ね安定していて経済的にも富裕だった。この時期、経済と文化の中心は、長江以南の地方に集中した。呉、南唐、呉越の各国は、田地の開拓、水利灌漑の整備で農業生産力が向上、湖南の楚では茶葉や絹が栄え、闽や南漢は貿易国として栄えた。開発が進み、南京を都とした南唐、成都を都とした前蜀と後蜀では、唐の文化を継承して、詞(詩余)という新しい自由な詩歌が生まれた。特に南唐の第2大皇帝・李煜は優れた詞人で、文房四方(筆・硯・紙・墨)の価値を高めたことでも知られる。 |
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宋
(北宋)
960
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1127 |
趙匡胤(太祖)が配下の将軍に推されて帝位についた。都の開封に戻った趙匡胤は、将兵に略奪や民を傷つけることを禁じた。後に趙匡胤は銘文を石碑に刻ませ、帝位を継ぐ際にこの石碑の前に膝まづいて銘文を読むように命じている。 1.後周の帝室である柴一族ならびにその子孫を保護すること。 2.官吏と学者を処刑してはならない。 3.農地の税をあげてはならず、宋王朝が続く限り、役人は武器を持って戦ってはならない。
帝位についた趙匡胤は、配下の将軍たちに酒と料理を振舞った後、多額の年金を保証する代わりに自発的に引退するよう説得した。軍の反逆の目をつむために。この見事な先手で、それまで200年続いた地方軍閥の勢力がそがれ、科挙試験に合格した文人官僚(士大夫)が政治の中心となり、宋は平穏に国内を統治できた。 第2代皇帝の趙匡義(太宗)の時代には、銀貨から紙幣の使用が盛んになった。貨幣経済、すなわち流通経済が活発になると共に、広範な地域を結ぶ交通網が必要になり、黄河や長江を南北に結ぶ大運河が開通した。 第3代皇帝の趙徳昌(真宗)の時代1004年に、遼に侵攻された。宮廷はまず南京へ、さらに成都へと逃げたが、防戦のために黄河まで進軍し、澶州(せんしゅう、現在の河北省濮陽県南西)で対陣したが、遼の皇帝・聖宗と「澶淵の盟」といわれる講和条約を結んだ。盟約自体は宋にとって屈辱的な内容だったが、国境周辺の交易が活発になり、経済的には繁栄した。 この頃の宋は、灌漑設備の完備や、インドシナ半島から早稲を取り寄せて、在来の晩稲と併せて二毛作ができるようになった。そのため生活水準が上がり、人口も急増し、1020年には登録されていた戸数が9700万になった。1040年には畢昇が活版印刷を考案した。
宋はその後1044年に北西に隣接する西夏(チベット系タングート族)と「澶淵の盟」と同様の盟約を結んだ。 いずれも条件付きの和平だったため、大規模な国軍を維持するための軍事費がかさみ、宋の財力は次第に磨り減っていく。 そのような中、有力な政治家だった王安石が、土地税制の抜本的改革を行い、15年で懸案の財政問題が一応解決した。 この時代、宋では羅針盤とそろばんが発明され、1090年には開封に天文時計台が建設された。 この頃、中国東北地方の奥地にいたツングース系の女真族が強大となり、その首長である完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が遼に反旗を翻し、1115年に金を建国、次第に遼を圧迫して1125年にこれを滅ぼした。
宋は金と同盟を結び宿敵である遼を挟撃し、宿願の燕雲十六州の奪還を図ろうとしたが、かえって金の華北侵入を招き、金軍は1127年、徽宗(第8代皇帝)・欽宗(第9代皇帝)・后妃・皇族・官僚・技術者など数千人を捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去った。この出来事を「靖康の変」と呼び、これによって北宋は滅亡した。
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金
1115
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1224 |
満州のツングース系の民族である女真族・完顔部族の部長だった完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が遼に反旗を翻し、1115年に建国した。 1127年に宋を滅ぼし、1142年には華南に逃れた宋の後裔・南宋との間に国境を定め、金を君、南宋を臣とする和議を結んだ。 13世紀始めごろには、南宋と北方遊牧民族の新興勢力・モンゴルに圧迫されるようになる。 1211年にモンゴル軍の侵攻を受け、首都を北京から開封に移した。1215年、北京もモンゴル軍に侵攻され、1232年にモンゴルは南宋と同盟を結んで金を攻めた。 1234年、金の最後の皇帝・完顔承麟(末帝)が自決し、金は滅亡した。 |
宋
(南宋)
1127
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1279 |
徽宗の第9子で欽宗の弟であった康王は、「靖康の変」の際に河北にいて難を逃れ、北宋の滅亡後、河南の応天府(現在の商邱)で帝位につき宋を復興し、南宋の初代皇帝・高宗として即位した。
高宗は金の追撃を受けて、南に逃げ長江を渡り、江南の諸勢力・反乱を平定して南宋の基礎を確立し、1138年に都を臨安(現在の杭州)に定めた。
1142年の金との和議によって南宋の領土は北宋に比べて半減したが、経済的に豊かな江南を確保し、経済的には大いに繁栄した。南宋には金の支配を逃れて多くの漢人が南下し、江南の人口は急速に増加した。彼らの手で江南の開発が進展し、以後江南は中国経済の中心地となった。
南宋第2大皇帝の孝宗の在位27年間で、長江下流域の沃野が開拓され、農業技術の進歩と共にますます米や茶などの生産が増え、「江蘇熟すれば、天下足る」とまで言われるようになった。 景徳鎮などの陶磁器をはじめ、絹織物、製紙、印刷などの産業が興り、国内の商業が発達し、広州や泉州などでは対外貿易も盛んになった。 対外貿易では、陶磁器、特に白磁が世界的に有名になり、磁器のことを英語で「Bone China(ボーンチャイナ)」と呼ばれた。
南宋の銅銭は、密輸によって海外に流出したが、それが世界通貨の役割を担うまでになり、国都・臨安の繁栄は絶頂期を迎える。13世紀末にこの地を訪れたマルコ・ポーロも、その繁栄振りに驚嘆している。
南宋は、9代約150年間続いたが、1234年に金がモンゴルに滅ぼされると、南宋は直接モンゴルと境を接することなった。やがてモンゴルでフビライ=ハンが即位すると、全力で南宋攻略にかかった。南宋は再三講和を申し入れたが拒絶され、1276年ついに首都臨安が陥落した。 |
元
1271
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1368 |
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明
1368
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1644 |
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清
1644
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1911 |
新王朝を建てた満州族は、もとは女真族と呼ばれ、現中国東北地方の山地や森林に居住していた。女真族は12世紀に金国を建て、中国北部を支配していた。そのため明王朝は、建州(遼東の山地)・海西(松花江流域)・野人(黒龍江流域)の3部に分断し、直轄領である遼東平野の北端(開原撫順から鴨緑江の河口に至る線上)に辺牆(へんしょう)という土塁を築いて女真族との境界としていた。 |
中華民国
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中華人民
共和国
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