前漢[西漢:紀元前206年~8年]
秦王朝滅亡後、項羽と劉邦による楚漢戦争(紀元前206年~紀元前202年)を経て、農民出身の劉邦が長安を都として漢王朝を建国、高祖に即位した。
“四面楚歌”という言葉は、この楚漢の戦いで篭城中の項羽が四方から聞こえてきた祖国・楚の歌を聴き、楚軍が漢の手中に落ちたと思い込んで最後を悟ったという出来事が語源。
前漢時代の地図
高祖は即位後中央集権の郡国制を実施した。従来敵対関係にあった匈奴とは、魯元公主を嫁がせることで和睦を結ぶなど、外征を控え、国庫財政の回復に努めた。
高祖の死後、未亡人の呂皇太后とその一族の乱を経て、文帝が即位した。文帝とその息子の景帝の治世は理想的と言われている。景帝の即位3年目には呉楚七国の乱が起こるが、これを鎮圧。以後経済は安定し、権力が絶対的なものとなった。
次の武帝の時代には、文帝・景帝時代に蓄積された国力を基に、匈奴に対して数度の大討伐を実施、朝鮮に出兵して4郡をおき、張騫の大遠征によって西域の情報を得ると大遠征軍を組織して西域諸国を服属させた。塩鉄専売などによって財政の確立を図り、また諸候王と諸候を数々の法律によって廃絶するなど中央集権的皇帝支配の体制を確立させた。
武帝の死後、霍光による専横、外戚と宦官によって国政が左右され、外戚の王莽が西漢王朝を簒奪するに到った。これを新王朝というが、赤眉や劉秀など各地の豪族による乱のため、15年で滅亡する。
後漢[東漢:25年~220年]
王莽滅亡後、新王朝末期の反乱軍で、漢王室の一族・劉秀が洛陽を都として漢王朝を再興、光武帝として即位。光武帝は外戚や宦官を抑えて内治に努め国家の基礎を確立した。
しかし後漢末期には、再び外戚や宦官が専横を奮うようになり、中央の豪族の師弟が「気節の士」として名節を尊び、外戚の専横を非難するものの、宦官たちは帝権を後ろ盾として名節の士を弾圧し、党錮の獄が起こった。
この頃、辺境の陜西方面では羌族が反乱を起こし、また各地では太平道という宗教集団による黄巾の乱が勃発、この反乱の鎮圧に乗じて各地の豪族が割拠し、華北の豪族・袁紹が宦官2000余人を惨殺、黄巾討伐に功のあった西涼の董卓が洛陽に入り天子を廃立、これにより漢王朝は滅亡した。