581年に北周が北斉を破って華北を統一した4年後、北周の将軍楊堅が皇位を簒奪し、南の陳王朝も攻略し隋王朝を立て、文帝として中国全土を支配した。
40年の統治の間に中央集権化された軍事組織と行政組織、財政基盤を整えた。行政改革の一環として科挙(※ポップアップウィンドウが開きます)を導入し、国を一つにまとめる求心力として仏教を利用しつつ、儒教も復活させた。
二代皇帝煬帝は、人民を動員して南北を結ぶ大運河を完成させ、大規模な外征に乗り出し、トルコ族の東突厥を服属させ、鮮卑族を征服した。しかし、高句麗の鎮圧はことごとく失敗に終わった。3度目の高句麗遠征では、高句麗に勝利するものの、敗れた高句麗王は約束を破り、随に臣従の礼をとらなかった。
徴兵と賦役により国内に不穏な空気がたまり、まもなく発生した黄河の氾濫を契機として、負担に苦しむ農民反乱が各地に勃発し、そのなかで617年、北方軍閥の李淵が長安を占拠、かつて煬帝によって失脚させられた大臣の息子・宇文化及に暗殺された。
煬帝の孫の恭帝が帝位につき、李淵が摂政となったが、翌年洛陽を占拠し恭帝を退位させ、唐王朝を開いた。