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中国まるごと百科事典

十二支

大家新年好!
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて今年は卯年ですが、この十二支は、もともと中国が発祥の地です。

中国では、十二支に関する最も古い記載は「史記」の中で黄帝が「建造甲子以命歳、大撓作甲子」したという記述があり、この甲子が、十二支を指していると考えられています。もっともこれはあくまでも伝説のお話です。

十二支に関する文献で、最も古いものは「詩経」です。「詩経・小雅・吉日」に、「吉日庚午、即差我馬」という記述があります。
これは「庚午の日は、馬を駈って猟に出るのに良い」という意味で、この頃に初めて、十二支と十二匹の動物(=十二獣)を対比させたと考えられています。

さらに「礼記」巻十七「月令」や「呉越春秋」巻四「闔閭内傅」などにも、若干記載があります。

現在、中国で最も早く十二支と十二獣について系統的に記述している文献は、「日書」だとされています。
「日書」甲種に、「盗者」という題の文章があります。ここではいわゆる盗人の容貌の特徴を干支別に記述しています。
「子年の盗人はひげが薄い、丑年の盗人は鼻が大きく首が長い、寅年のものは黒く豊かなひげ、卯年のものは大な顔・・・」などという内容です。
すべての干支について書かれているようですが、なにしろ木簡に書かれたもので、文字の判別ができない部分があるようです。
年代考証では、この「日書」が発見された「湖北省雲夢県睡虎地十一号墓」は、秦始皇30年(紀元前217年)とわかっていますので、十二支の考え方は、これより前の春秋時代にはあったはずだとされています。
この頃の十二獣は、現在のものとは違っていて、
「子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兔、辰は竜、巳は蝮、午は鹿、未は馬、申は猴、酉は鴨、戌は羊、亥は豚」
となっています。覚えやすいように、動物を充てたとされています。
十二獣が現在のものに落ち着いたのは、漢代だとされています。

ちなみに、天干地支による60日循環暦法は、商(殷)代に作られたとされていて、干支表なるものが刻まれた甲骨文が見つかっています。
確証は見つかっていませんが、天干紀日法は、夏代にはあったとされています。春秋時代の典籍「尚書・尭典」にそう書かれていて、夏代末期の皇帝の名前に胤甲とか履癸などが見られることから、中国ではそう考える人が多いようです。

現在の中国でも、十二支の考え方はあります。ちなみに中国語では現在も十二支の最後は「豚」です。

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